数々の伝説
■門田博光 通算成績&記録
■大きくなっていく背番号・・・
門田は、南海入団当初、背番号27番で入団。1980年に背番号を44番に変更。この変更は、44歳で亡くなった母への弔いで申し出たものだという。さらに1983年に今度は44から60番に変更して2度目の本塁打王を獲得する。
1989年に門田はオリックスに移籍。背番号は、現役では最大の78番を選択した。コーチや監督が付けるような番号である。
そして、1991には再び古巣のダイエーに移籍。ここでも大きな背番号53を付けてそのまま現役を終えた。
■アキレス腱断裂の大怪我からパワーアップして復活
1979年2月の高知キャンプで練習中、門田は、コーチの笛に合わせてジャンプした瞬間にアキレス腱を断裂。
 31歳になっていた門田は、そのまま5月まで入院となり、再起を危ぶまれる。その年はほとんどをリハビリに費やし、19試合に出場し、2本塁打のみという成績に終わっている。
 しかし、1980年には打率.292、41本塁打、84打点という入団以来最高の成績で復活。特にそれまでの最高本塁打数が31本だったのを大きく10本も上回る41本塁打を放っている。
 さらにその翌年は44本塁打で2度目の本塁打王となり、歴代3位の567本塁打を数えるまでになった。
■不惑のアーチスト
40歳を迎えた1988年、門田は、好調に本塁打を量産し、前年の31本塁打を超えてもなお打ち続け、シーズンが終わったときには44本塁打に達していた。
 打点も125で、本塁打・打点とも自己最高の成績で2冠王に輝いている。
 しかも、40歳での本塁打44本は大リーグでエバンス(タイガース)が記録した34本を10本も上回る驚異の世界記録となった。
 ちなみに日本では王が引退の年に記録した30本が最高記録である。
 そして、1989年にはオリックスに移籍して33本塁打、翌1990年にも31本塁打を放ち、最年長記録を次々に塗り替えている。
■福岡行きを拒否して地元移籍
1988年末、南海は突如、球団をダイエーに身売り、大阪にあった球団は福岡に移ることとなる。
 1989年2月には41歳となる門田は、この福岡移転を拒否して移籍を希望し、同じ年にこれまた阪急が身売りしてできたオリックスに移ることとなる。
 そして、2年後の1991年、チームの方針とダイエーの熱意から古巣への無償トレードを承諾。ダイエーで2年間プレーして現役を終えている。
■40歳を超えて133本塁打したフルスイング
 門田の最大の長所は、ミートの際に最も速いスピードでボールを叩く豪快なフルスイングだった。
 そのため、567本もの本塁打を量産。特に40歳を超えてからなお133本積み重ねた記録は、あの全力を注ぐスイングの賜物である。
 その代償として三振の数も多く、歴代3位の通算1519三振を残している。特に鈴木啓示の3000奪三振のときにこれ以上ないフルスイングで三振したことは有名である。
 オリックス在籍時に豪快なホームランを放った後、パワーが衰えた、と嘆いてチームメイトを驚かせたという逸話も残っている。
■月間本塁打数16本
 1981年7月、門田は、この月に入ってから信じ難いペースで本塁打量産体制に入り、その月が終わったとき、16本に達していた。
 その月は、不運にもオールスター戦があるため、23日から30日までの間は公式戦は行われていなかった。
 したがって、他の月より少ない21試合しか行われなかったにもかかわらず、16本という日本記録を打ち立てたことは奇跡と言える。
オリックス生命 公式サイト
 
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